2019年度『ふたば 54号』 

学部ニュース

 令和となり、緑地環境学科の体制も新しく変わろうとしております。ここ数年にわたり申請をしておりました大学院改組が文科省に認められ、
令和2年度より園芸学研究科の環境園芸学専攻が、ランドスケープ学コース、園芸科学コースの2コース体制に変わります。これは大学院の変革ではありますが、今後学部学科教育においても同様の変化が出てくることと思われます。その特徴は、これまで造園・科学・健康とわかれていた緑地環境学科の各専門分野の融合をはかること、特に必修科目「ランドスケーププロジェクト演習」という実践型研究教育の場を諸分野のプラットフォームとして機能させてゆくことです。ランドスケープ分野を、自然生態科学、地域社会科学から、計画・設計・施工まで網羅して研究教育している千葉大学の伝統をさらに強化するものと期待しております。

 若手研究者の活躍もみられます。渡辺洋一先生が参加されていた共同研究からツツジの新種が発見され、国際誌PhytopKeysに掲載されました。また、昨年度よりアメリカワシントン大学に長期海外研修に行かれていました加藤顕先生が、この春帰国し、3Dレーザー測量技術と森林科学における応用分野でさらに活動を展開されています。

 キャンパス風景で今年大きく変わりましたことは、長らくキャンパスの中央を占拠していた仮設フェンスが取り除かれ、松戸キャンパスの図書館「松戸アカデミックリンク」が姿を現したことです。棟名としてはF棟と呼ばれることとなりました。すでに事務が入っており、年明けには本格的に図書館として機能する予定です。さらに南側の旧事務棟が撤去され、イタリア庭園から図書館2階のフリースペースにつながる緑の丘が建設予定です。これもまた、卒業生の方々のさらなる寄付に期待するところが大きく、引き続きのご支援を賜りたく思う次第です。

 これら組織、環境の変化の中で、学生たちの活躍も多くありました。研究分野では、「東京都公園協会賞」として、環境造園学領域の北野美里さんが公園と地域の関わりに関する研究で優秀賞を、また納谷優佑さんが淡水性外来生物の捕獲に関する研究で奨励賞を受賞しました。計画設計作品分野では、笹原洋平さんの、製紙工場跡地を富士の山容景観と結びつける設計提案が、「レモン展」での95大学作品の中から最優秀賞に当たる審査委員長賞を受賞、鈴木悠介さんの火入れ文化の研究に基づく種子島ロケット発射場環境創生の設計提案が、「日比谷ランドスケープデザイン展」にて最優秀賞と熊谷玄賞を受賞しています。また、「日本造園学会学生デザインコンペ」筑波研究学園都市への提言においても、張千さん・厳妮さん・劉書昊さん・谷本実有さん・平木咲椰子さんの共同作品が優秀賞を飾りました。

 昨年に続き北京林業大学で開催された「花園節:国際学生コンクール」に学生8人が1週間参加し、竹によるパビリオン建設を行いました。365作品の中から選出された15作品が学生自身の手による建設となり、千葉大学が見事に最優秀賞を獲得しました。海外審査員にも高く評価されました。これら学生の前向きな活躍も、二葉会の主催・助成による交流、ご支援から得る刺激によるところが大きいと思われます。

 学生の国際化はいよいよ進み、10年前までは、大学院講義科目に集まる学生は、専門分野の日本人数人という教育でしたが、今日では受講者40名という場合もしばしばで、その2/3が留学生で英語のみの学生も多いため、講義は英語で行うことが頻繁となっています。

 研究室の地域連携も継続しており、斎藤雪彦先生が、岩手県大船渡市より、震災からの継続的な復興まちづくりに対して感謝状を送られました。松戸市との連携プロジェクトでは、柳井重人先生が「21世紀の森と広場:保全活用」の受託研究を受け、11月開催の「松戸アートピクニック」と連動する形で、緑地環境学科からアート作品2点も展示されます。

 今年も7月のサンクンガーデン夏の会はあいにくの雨模様でしたが、今年のレクチュア部門は、専門家お一人のレクチュアではなく、学生に身近な各分野の若手卒業生5名に集まってもらい、それぞれのお仕事における活躍や問題意識を語ってもらいました。学生からも活発な質問があり、よい会になったと思います。今年の実学セミナーは、10月に千葉県の中央博物館研究員、水野大樹様にお越しいただき、学生にも大変興味深いお話をいただきました。次の実学セミナーには、園芸療法士の小澤直子様にご登壇していただける予定です。

 平成30年度の学部卒業生は67名、そのうち24名が大学院へ進学しました。大学院からは平成30年度に修士42人、博士9人が輩出され、毎年増加しております。大学全体の国際化の流れを受け、この夏実施の大学院入学試験では留学生応募が急増し、研究室によっては、通常の2、3名受け入れに対し十数名の受験者がおり、大変高い倍率となりました。英語能力が入試結果を左右する状況となっています。日本人学生の短期・長期留学は、昨年秋からこの夏にかけて学部生23名、大学院生8名にのぼります。来年度からは、千葉大学全体のグローバル人材育成ENGINE始動により、学部生も大学院生も全員が海外留学必修となります。どのようなことになるのか、期待と不安が入り混じります。

 文末になりましたが、今年度も学科長は三谷徹となっており、緑地科学領域長・百原新先生、環境健康学領域長・岩崎寛先生には引き続きご担当いただいております。環境造園学領域長は新たに古谷勝則先生に引き受けていただいております。
この一年もまた、皆さまとの交流をよろしくお願いいたします。

思い出の真鶴、再発見と海の幸の旅

~ 真鶴会 思い出の真鶴、再発見と海の幸の旅~
造園学科 昭和52年卒 小山 義訓

 平成29年10月13日(金)から一泊二日で実施した「旅」の報告です。
二葉会の60歳代、70歳代の会員の方は、学生時代の真鶴半島でのアルバイト経験者が少なくないと思います。
念のため、先ずは真鶴会の自己紹介です。

真鶴会とは  青春を懐かしむ変なオヤジ(ジジイ)の会かな?
昭和30年代から50年代まで継続していた造園学科生のアルバイトがありました。夏休みを活用し真鶴半島突端の真鶴ケープパレスで3食宿付きのバイトで、キャンプ場や海岸(海水浴場)等の維持運営作業を行いました。平成26年の二葉会二次会で話が盛り上がり、「真鶴会」(代表 S44安藤義之)結成!翌年の9月には、文集「青春の真鶴」刊行と真鶴訪問&熱海大宴会(全国から 37名参加)を挙行。以後、長崎や横浜、東京などで真鶴関連の「旅」(大宴会付き!)を実施してきました。

今年のメインイベントが、この「再発見と海の幸の旅」、深く真鶴を知る旅です。昼間は「ブラタモリ」的な旅(結構まじめ!)で、真鶴「本小松石」と真鶴の歴史を学ぶ内容です。柳沢さん(S42)が関係方面との連絡調整や下見を行ってくださいました。13時にJR真鶴駅前集合、当日は雨、そして寒い!
ドタキャンもあり参加者は少なめの7名、柳沢、安藤、塙(S46)、秋山(S48)、中川(S50)、佐藤(S50)、小山です。移動はリッチにタクシーです。

真鶴「小松石」を知る
江戸城の石材に使われた小松石。採石に関係した黒田長政の供養の碑を見学。それ後小松山(現在のJR真鶴駅北側の山)の採石場へ。
県石材協同組合紹介の「海野石材店」海野社長の案内で加工所と採石場の見学です。小松石は初代新橋停車場プラットホームや横浜港の護岸にも使用され、日本の近代化に欠かせない石材でした。特に肌目の美しい「本小松石」は、大正・昭和天皇陵にも使用された最高級墓石で、お値段は〇百万円とのこと、絶句!今の採石方法はダイナマイト発破ではなく大型ユンボでした。

歴史を知る
つづいて、石で財を成した旧家を生かした町立民俗資料館へ。当日休館日にもかかわらず教育委員会の担当者が案内してくれました。石材業や漁業関係資料、
旧家に残された美術工芸品等を見学、魯山人の器もありました。その後、児子(みこ)神社経由で町役場産業観光課へ挨拶と御礼に。真鶴の生活が息づく昔ながらの路「背戸道」の散策へ。背戸道からの海と街並みの美しい景観や、途中出会った地元の上品なご婦人との会話を楽しみました。歩いていて心地よい路でした。港に向かいます。真鶴産業活性化センター内の真鶴町観光協会と漁協直売店に立ち寄り、いよいよ宴会です。

■真鶴を食べる
真鶴漁港内にある「お食事処 宵」で、漁港水揚げの新鮮な地魚を刺身に煮魚、焼き魚と堪能!当然酒付きです。宿は近くの民宿「潮騒」、夜中までビールを飲み続けながら「青春の真鶴」の話しが尽きませんでした。翌日は10時に解散。真鶴にお金を落とした旅でした。

■真鶴バイト経験者の会ですが、バイト経験のない人でも大歓迎です。あなたも変なオヤジ(ジジイ)になってみませんか!

こんなメンバーでした 於西念寺

真鶴の地魚を堪能しました

背戸道を歩く中川さんと佐藤さん
嬉しそう!



林脩巳先生と学部キャンパス

林脩巳先生と学部キャンパス
藤井英二郎(昭和49年卒)

 

二葉会を手弁当で支えて下さっている幹事の方々と、大所高所から助言下さる相談役の方々、そして協賛企業各社に感謝申し上げます。
一昨年の「ふたば」52号では二葉会の起点である森歓之助先生、昨年の53号では森先生の先生・林脩巳先生について記しました。本号では、林先生が計画・設計し、施工・育成した千葉高等園芸学校キャンパスについて記します。
 園芸学部キャンパスについては、西村公宏氏(昭和63年卒)が「千葉県立園芸専門学校における「庭園論」と校庭整備の関係について」(造園雑誌、1994)1)で、後述する『母校の歴史を語る座談會』(1942年)をもとに前庭(イタリア式庭園)、サンクガーデン(フランス式庭園)、新庭園(風景式庭園)などの造成時期について整理し、庭園造成が林先生を中心に進められたことを推察されています。この研究を踏まえて、石井匡志氏(平成13年卒)が卒業論文「千葉高等園藝学校の造園教育とキャンパス形成との関係」をまとめ、その概要は2003年発行『日本庭園学会10周年記念論文集』2)に掲載されています。要点は、高等園芸の造園教育は実習中心であり、実習によってキャンパスが整備され、その中心が「庭園実習」担当の林先生であった、ということです。
 前述の『母校の歴史を語る座談会』3)の記述を辿ると、林先生が建物や温室などを含めてキャンパスを計画・設計されていたことがわかります。座談会は、昭和17年5月24日に松井校長(第3代)、林先生、橋本章司先生、岩田喜雄氏(明治45年卒・1回生)、池田實氏(同左)、伊藤立助(大正2年卒、2回生)、西村時直氏(大正3年卒、3回生)、小熊彦三郎氏(大正4年卒、4回生)、小林茂氏(同左)、山下寅之助氏(大正7年卒、7回生)、島田正己氏(大正9年卒、9回生)、他に在校常任理事を加え、森歓之助先生(大正3年卒・3回生)が記録を務めて、母校会議室で行われています。
イタリア式庭園について、岩田氏は「明治43年に前庭の土工をなし、斜面の寄植を作りました。植物は山から掘って来たもので、林先生が建物を引き立てる為に作られました。造園費は縣からは一文も出なかったのです。この寄植には随分苦労しました。初めは枯れたので何度も補植をしました。林先生御来任早々に始められた仕事でした。」この発言を受けて、林先生「学校の建物はペシャンコの低いものだから、土地を削り取ってからいくらか見られる様になった。」つまり、明治42年開校時の建物は、明治34年創立の県立千葉中学(現千葉高校)松戸分校の校舎をそのまま使っていたため、現イタリア式庭園南側のイチョウの対植近くにあった開校当時の校門から見ると、建物が平屋で存在感がなかった。そこで、建物南側の南下がりの斜面を削ってテラス状の平場を造り、建物との間にできた斜面に後に「高等園芸式混垣」と呼ばれる寄植が作られたのです。言い換えれば、テラスと傾斜地を貫いて真っ直ぐ玄関前に至るアプローチを軸線としたイタリア式庭園で建物を演出したわけです(写真1)
フランス式庭園周辺について、岩田氏は「サンクガーデンや講堂付近は運動場でして、此処で野球をやったりしました。・・サンクガーデンは私等の3年の時(明治45年春)に出来上がりました。」サンクガーデンの北側(現B棟付近)にあった温室については、岩田氏「林先生の設計されたものです。」 林先生「明治43年に出来ました。」ただ、林先生の着任は、明治43年12月8日ですので、着任前に設計され工事が進んでいたことになります。因みに高等園芸着任前の林先生は、三菱・岩崎家造園部で高輪邸(現開東閣)の設計・施工をされていた時期です。当時の高輪岩崎邸造園部集合写真(写真2)を、先般、八戸の橋本香月園の橋本修氏が送って下さいました。中央右側が林先生です。なお、橋本氏のお祖父様が高輪岩崎邸造園部で研修されていたとのことです。
温室は、サンクガーデンと平行して北側に立ち並んでいましたので(写真3)、サンクガーデンの敷地は岩田氏が入学した明治42年には運動場だったものの、直ぐに土工が始まったことになります。つまり、温室もサンクガーデンも着任前から林先生が設計していたことになります。そして、サンクガーデンを縁取るトピアリーで現在古木になっているチャボヒバについて、林先生は「サンクガーデンのチャボヒバの苗は明治45年に安行から取り寄せたものです。」と発言されています。
サンクガーデンの西に配置された講堂(現A棟位置)(写真4)について、小熊氏は「講堂の辺も高かった。講堂付近の地均しのため3週間土工をやりました。」また、西村氏は「今講堂のある所は茶畑でした。私等は講堂敷地の土運びをしてから卒業したのです。」前掲の石井氏の論文では、この土工をサンクガーデンと講堂との高低差を意識しての工事と考察されています。なお、講堂付近は徳川昭武の戸定邸の敷地だったと推定されるところで、茶畑は戸定邸の一部だった可能性があります。因みに、戸定邸の記録で明治44年6月12日に林先生が戸定邸の御庭拝見をされています4)
 新庭園(風景式庭園)について、小熊氏は「(土工は)私達の1年の時(明治45年)からです。あの時の土工は相當骨が折れた。」(写真5) 林先生「1丈位取ったね。その頃斜面には梅、椿、槭、竹等の見本を植えたものだ。學校をある西洋人が西洋臭いと云ったので邦産の樹木を蒐める事にした。斑入樹木は明治44年から45年に植えた。なにしろ豫算がなく実習だけでやるのだからむずかしかった。」 小熊氏「大正3年の卒業式の時はあそこで園遊会が催されビール会社から出張して非常に盛であった。」 林先生「土工で体力を試した。それを通る迄は假入学であった。」 小熊氏「私等1ヶ年も假入学であったのか。(笑)」
 講堂は、サンクガーデンの東西軸より北にずれて庭園の軸線とは合っていません(図)。サンクガーデンは明治43年施工開始、45年竣工で、一方講堂南の新庭園は明治45年施工開始、大正2年竣工です。これらに対して講堂は大正3年施工開始、4年竣工です。つまり、サンクガーデンの軸線に合わせて講堂を建てることは十分可能であったのですが、その軸線よりは講堂を北側にずらし、講堂南側に半円形の広場を確保することを優先させたのです5)。ヒマラヤスギで自然に縁取った半円形広場、そして講堂南面のバルコニーから新庭園を俯瞰するために、講堂の正面を新庭園側にし(写真6)、講堂の位置を北側にずらしたのです。そして、サンクガーデンと講堂の間には軸線のずれを緩和する植栽6)としてイタリアンサイプレスが植えられました。今は大木になっているヒマラヤスギは、「大正4年に1丈位のものを横浜のブルックより購入して植付。サイプレスも同時植付。」(『母校の歴史を語る座談会』)。なお、現サイプレスは、柏農場の敷地の一部を東京大学に割譲した時に、柏農場から移植したものです。
 林先生がサンクガーデンや新庭園の造成を進め、講堂整備を進める最中に建築雑誌280号に対談形式で書かれた「庭園築造の心得」7)で、「先ず理想と考案を定めよ 家屋の建築前に庭園を造れ」と述べておられます。つまり、サンクガーデン、新庭園を造ってから講堂整備を進めたのは、その理論の実践でもあったわけです。その心得には、さらに「凡そ完全な庭を造ろうとするには、・・造設する前に確な一つの理想を以て最終の竣工まで予め築造せんとする腹案を作って置き・・。而して之を築造するに最も必用な条件が二つあって、・・第一は作る人の理想の高尚な事、第二は造設家の技量」と述べています。

引用文献と補注
1) 西村公宏氏(1994)千葉県立園芸専門学校における「庭園論」と校庭整備の関係について,
造園雑誌57(5)、37-42
2) 石井匡志(2003)千葉高等園藝学校の造園教育とキャンパス形成との関係、日本庭園学会10周年記念論文集90-93
3) 石井匡志(2001)千葉高等園藝学校キャンパスの校庭に関わる資料、園芸・緑地資産に関する座談会資料
4) 戸定歴史資料館学芸員・小寺瑛広氏のご教示
5) 藤井英二郎(2005)建築と自然環境の関係再生、建築雑誌120(8)、18-19
6) 須田歩・趙炫珠・李宙営・藤井英二郎(2009)イタリアンサイプレスの対植による幾何学式庭園に対する眼球運動の変化に関する研究、造園雑誌72(5)、465-470
7) 林脩巳(1910)庭園築造の心得、建築雑誌280,34-36
 なお、学部のキャンパスと庭園については、文部省施設部に永く勤務された後、都城工業高等専門学校校長を務められて退官された故篠塚脩先輩(昭和25年卒)から書くように云われ、文教施設34号(2009)、58-61に小文が掲載され、小文は、油井正昭先生(昭和36年卒)編集の『千葉大学園芸学部創立100周年記念誌 戸定ヶ丘の時空百彩』(2009)に転載されています。

写真 1

写真 2

写真 3

写真4

写真 5

写真6 (昭和11年2月5日)

図 
『千葉高等園藝学校庭園平面図』部分